2016-11-21 第192回国会 衆議院 決算行政監視委員会第二分科会 第1号
東京の数寄屋橋の交差点にひっそりとたたずむブロンズ像があるかと存じます。そこには不意の地震に不断の用意と刻まれておりまして、関東大震災十周年の戒めとして市民の募金によって建立されたもので、作者は、長崎原爆の平和祈念像をおつくりになった北村西望さんの作品だそうです。災害ですから常に切れ目なく備えよ、先人の教えはそう伝えているように感じるわけであります。
東京の数寄屋橋の交差点にひっそりとたたずむブロンズ像があるかと存じます。そこには不意の地震に不断の用意と刻まれておりまして、関東大震災十周年の戒めとして市民の募金によって建立されたもので、作者は、長崎原爆の平和祈念像をおつくりになった北村西望さんの作品だそうです。災害ですから常に切れ目なく備えよ、先人の教えはそう伝えているように感じるわけであります。
それに対して、抗議をする人たちが恐らく五百人近く、数寄屋橋の交差点で黙ってプラカードを掲げて、差別は許さないと。そこには、写真、資料でお配りしておきましたけれども、「ヘイトスピーチ、許さない。」と。これは、法務省が作ってくださったチラシから大きくこういうものを作って、差別はいけないんだよという人たちが活用されていると。
私たちはラジオ時代に生まれていまして、例えば「君の名は」というのは、真知子と春樹、それから数寄屋橋が見たかったです、夢があったんです。片山先生は多感なときだったと思うんですが、よく分かっていると思うんですが。 あとは、要するに何というんですか、こんなこともありました。調べてきたら、名文があるんですよ。
その集会の後で、デモ隊が新橋、数寄屋橋、そして常盤橋まで歩いていきました。そのときに、ある団体、具体的に言いますと、在特会、在日特権を許さない市民の会と称する人たちが拉致問題解決のデモ行進の中でこのような言葉を発しました、在日朝鮮人を東京湾へたたき込め。それに応じて、たたき込め、そういう声でずっとデモを続けました。
新橋を通り、数寄屋橋を通り、最後は常盤橋まで向かったんですけれども、そのときにデモの中から、全ての朝鮮人を東京湾にたたき込めというシュプレヒコールが上がったんですよ。これは二〇一一年の六月五日のデモです。映像にも残っております。それを聞いた横田滋さん、早紀江さんがびっくりしました。
たまたま私も、数寄屋橋で演説をしたときに、それを売っている人から話しかけられたことがございます。
実を申しますと、地元からはスクランブル交差点にしてほしいなんという要望があるんですが、それはさすがに私も、数寄屋橋の交差点じゃあるまいし、渋谷駅前じゃあるまいし、ちょっとうちは無理だと言ってなだめた経緯がございます。 この点につきまして、国土交通省と警察庁のお考えを伺いたいと思っております。
エコにもむだだし、あんなものをやめるにはどうしたらいいかというので、友達である石坂浩二君に頼んで彼のデザインでエコバッグという布のバッグをつくって、それをそれこそ徳光君とか小野ヤスシ君とか永六輔さんとか僕の友人がたくさん来てくれて、数寄屋橋でみんなに配ったんです。それから、その後も続けてうちの店ではそれを売って、その利益分は、原価を除いた分は全部WWFに寄附しているんです。
最初の募金というのは、昭和四十二年の秋に東京の数寄屋橋と池袋で、朝の十時から夜の八時まで八日間ぶっ通しで、二十歳代の若者が声をからして、交通遺児の救済ということでカンパをお訴えしたところです。訴えの中心は岡嶋さんという方で、当時は二十四歳。この方は、自分の親がわりでもあった、年は大分上のお姉さんがトラックにひき逃げをされた、いわゆる交通事故被害者の家族であります。
ですから、数寄屋橋のところで起こった「君の名は」なんというようなすれ違いは絶対起こらないわけでありまして、あれは工業化社会で起こったわけでございますが。 そうなると、今おっしゃいました一堂に会するという意味が、ネットワークと不可分で、しかもそのとき一番いい場所というのがございますね。例えば、災害が起こった。災害の場所でどの辺が一番いいかは、通信をとりながら、動きながらやる。
だから、その次の交番といったらちょっとどこにあるか僕はよくわからぬのですけれども、多分数寄屋橋の交番だと思います。それから数寄屋橋の次が銀座四丁目の三愛のところの交番だと、あのかいわいだけで。 足りなければ足りるようなそういうことも含めて、締めくくりに長官、今までのやりとりを含めまして、連係プレーも含めまして、何か御見解があればお聞かせいただきたいと思います。
初めての募金は、わずか十人足らずのボランティアが、東京の数寄屋橋と池袋で、朝の十時から夜の八時まで八日間立ち続けたものです。集まった浄財は、一円玉、十円玉などで三十万円。このお金が二年後の財団設立の資金となって、その後、四万四千人の交通遺児が高校、大学へと進学する奨学金三百億円の種ともいうべきお金となりました。 交通遺児のための募金運動には、育英会発足後、全国の大学生が参加しました。
初めての募金は、わずか十人足らずのボランティアが、東京の数寄屋橋と池袋で、朝の十時から夜八時まで八日間立ち続けたものです。集まった浄財は、一円玉、十円玉など三十万円。そして、このお金が二年後のこの財団設立の資金となり、その後、過去累計では四万四千人の交通遺児が高校、大学へと進学する奨学金、これが三百億円にもなっております。その種というべきお金となりました。
世界の文化遺産だから、こういうものを日本と同じように、日本も東京オリンピックとかなんかでむちゃくちゃ壊して、かつての「君の名は」の数寄屋橋やなんかなくなってしまって、あれで本当にいいものだろうかと。 最近ようやく新聞の社説でも、日本の農村へ行くと棚田がどんどん壊されるわけですが、こういういいものをどんどん壊していっていいんだろうかということを、私は前からも言っているんだけれども。
○木宮和彦君 私は、実は参議院に参りまして翌年の二月七日に、自民党の国民運動推進部長をやらせられまして、数寄屋橋の前で街頭演説をいたしました。その原稿がここにございます。一緒にやったのが伊東正義さん、それから山下徳夫さんとか、こういう諸先生方と一緒に四、五人で北方領土返還のことを訴えた。この日は雨がちょっと降っておりました。
いわゆる国民注視のこの国会で、国民の最大の関心事である税制の問題が討議されるということは非常に結構なことでございまして、代議士というのは、民衆に代わって議する士(さむらい)と書いて代議士と読むわけでありますから、忠犬ハチ公前や数寄屋橋で演説するのも結構でありますが、やはり国民の負託を受けた者が、国民注視の前でこうして堂々と議論を展開していく、それこそ代議士の、国会議員としての使命が果たされるということになるのではないか
例えば、それでは日本橋というのは、これは建造物ですかそれとも場所ですか、数寄屋橋というのは一体どうですか、思案橋というのはどうですか、戎橋というのはどうですかといろいろあるわけで、特許庁の正式回答で大鳴門橋についての回答がございまして、大鳴門橋土産と関連して瀬戸大橋土産、こういうものは商標権侵害に当たらないという回答をされているようですが、それはそれでよろしいですね。
その現実にいい例は、銀座、数寄屋橋かいわいの百貨店が一時間閉店時間をおくらしたことによってあのかいわいの人の流れが変わった、こう言われておるわけですけれども、これもやはり雇用の拡大、内需の振興ということに役立つんではなかろうかな、こんなふうに思います。
数寄屋橋で街頭募金をやりましたときもあなたに来ていただいておった。交通遺児と母親の全国大会にもあなたに来ていただいておった。あるいは交通遺児の高校授業料免除のときには、あなたは幹事長として土壇場でこの予算を押し込んでくださった。また、交通遺児に総理になられてから会っていただいて、そして予算の増額もしていただきました。
ということで、それに伴いまして、残高証明として六百万円、富士銀行数寄屋橋支店の「残高証明書」が添付されておりましたので、私はそのように承知しているということを昨日御答弁申し上げました。